”寄り添う”ってどういうことかな




さきほど友人たちと、病に向き合う人との関わりの中で

”寄り添う”って、どういうことかな?

・・・ということについて、やりとりをしていました。
わたしは以前書いた記事「当事者と当事者でないひとの温度差」の最後に「目の前の人の気持ちに寄り添えるひとでありたい」と書きました。
この記事を書くとき、いろんな思いや感じたことを、どう言葉に綴ったら伝わりやすいかな・・・と、時間をかけて書いたつもりでした。

でも、あらためて「寄り添うって何?どうしたら寄り添えるのかな?」と問われたとき、自分の中でちょっと焦ったし、迷走してしまいました。
・・・やっぱり、その場しのぎの上っ面のコトバだったということですね。



数年前、一緒にヨガ練をしていた友人がいて、お互い久しく連絡は取り合っておらず彼女の近況については知らなかったのですが、たまたま今日、彼女が現在病気と戦っているらしいということを知りました。
わたしはもし、彼女と連絡をとるとしたら、どう言葉をかければいいのだろうと一日中考えていました。
そんなところへ友人からの冒頭の問い。
・・・深いな。"何か"とちゃんと向き合うべきときって、向こうからやってくるんだ。
「あなたはいまこれをやりなさい」って、おでこにぺっと宿題を書いた紙を貼られるみたいに。



うーん、うーんとたぶん、それぞれお互いスマホを握りしめながら
(友人のひとりは途中、お風呂に入って考えを整理したらしい)
時間をかけてメッセージをやりとりして、
わたしたちが昨晩行き着いた答え、それは



「あなた(目の前のひと)はどうしたい?」を尊重すること



でした。
あなたがこうしたい、こう決めた、ということを
時には応援もするし、時には静かに見守るよ
・・・ということしかないね、と。
言葉にして表現するのは本当に難しくて歯がゆいけれど。



たまたま、さっきは他人との関係性の中での”寄り添う”ことについて話していたけれど、
でも本当は寄り添わなければいけないのは、まず自分なんだよね。
常に「あなた(自分)はどうしたい?」と自分の”中のひと”の声を丁寧に聞く。
その声は、直感ですぐわかるようなこともあるかもしれないけど、たいていは玉ねぎの皮をむいていくように、少しずつ少しずつでないとわからないかもしれない。
友人のわかりやすい表現を借りると「マトリョーシカ」人形を開けていくみたいに。

わたしはまだまだ、外側の薄いかっさかさの玉ねぎの皮と格闘中。もしくは、一番外側のマトリョーシカがぎっちぎちに固くてなかなか開けられないかんじ(苦笑)。



(そして友人の「マトリョーシカ」人形の例え話を聞いてから、わたしに突然舞い降りた「マトリョーシカ」ブーム。自分で作りに行こうと画策中)